立命館大学メディア芸術研究会

立命館大学学友会学術部公認団体「メディア芸術研究会」の公式ブログです。ブログや当会についてのお問い合わせは 2010mediart@gmail.com まで 公式ツイッターもご覧ください。 https://twitter.com/rumas_n

新企画!

ご機嫌いかがでしょうか?4月ももうすぐ終わりですね。このブログは当会の活動告知や活動報告をメインの目的としていますが、それだけではもったいないので他の活用方法を考えてみました。その結果生まれたのがこの「ZINLOSS復刻」。過去に発刊されたZINLOSSの中から「これは!」という原稿を再選定し、月1回のペースで掲載しようという計画です。今回は2013年の秋号(学祭号)であるvol.14掲載のさうすぽー氏による「プリキュアといじめ」です。スクロールしてどうぞ。

 

 

                               プリキュアといじめ    

                           筆:さうすぽー

 

1.はじめに

 2011年10月に起こった大津市いじめ自殺事件。これは滋賀県大津市の中学二年生が周りから受けたいじめによって、マンションから飛び降り自殺をした痛ましい事件である。このような「いじめ問題」が大々的に報じられたのは今回が初めてではなく、昨今の教育問題を語る上で欠かすことのできない大切なテーマのひとつである。このような「いじめ問題」は決して今回の事件のような、中学生だけの問題だけではなく、小学校・幼稚園にまで被害の報告が広がっているという。

 この「いじめ問題」を主題にその回答を述べた作品が2013年3月より公開された「映画プリキュアオールスターズ NewStage2こころのともだち[1]」である。この作品は2003年の「ふたりはプリキュア」から続く東映アニメーション製作の魔法少女シリーズの劇場化作品であり、現在放送中の「ドキドキプリキュア」でついに10年目を迎えた。では「いじめ問題」をなぜ本作品でテーマに据えたのだろうか。プロデューサーである梅澤敦稔[2]はインタビューでこう答えた。「子ども向けの作品をつくっている人間として、やっぱりいじめは、避けては通れないのではないか、いじめにきちんと取り組んでから『プリキュア』を卒業したいという思いが私の中にあった。だけど、重い気持ちになるような映画にはしたくないなと。私なりにいじめの本質ってなにかってことを考えていくと、ひとに暴力を振るうってことよりも、軽はずみに言ってしまったことで取り返しがつかなくなったりとか、悪いとわかってるんだけど言えなくて、ついつい人に流されてついていってしまうとか、そっちの問題の方が根が深いと思うんですね。[3]梅澤はこのように述べ、プリキュアたちを「いじめ問題」の舞台に立たせることで、現代の子ども達にメッセージを伝えようと試みたのである。しかし、主な視聴者層が未就学児童と呼ばれる3~5歳前後の子どもでは、まだ「いじめ問題」を経験した人はほんの僅かであろう。そして、何も考えずに「いじめ問題」を描いてしまうと、子どもに苦痛を与えるような暗い物語になってしまう。しかし、このような不安事項を抱えながらも、プリキュア達はあえて、「いじめ問題」に立ち向かったのだ。これにはもちろん理由があると私は考える。

 本稿では子供向け作品、中でもプリキュアが「いじめ問題」にどう挑戦したのか多角的視野を持って考察していくことにする。この作品は、梅澤を含め、製作陣が「いじめ問題」についての言及を多数のインタビューで述べていることから、今作において最も重大なテーマであることは間違いないと思われるので、そこを追求していきたいのだ。そして、私は本稿をもって、「いじめ問題」についてプリキュアたちの回答を探ること、そして親子の相互理解のうえで成り立つプリキュアのメカニズムを確認していくこと、この2点を目的として、プリキュアASNS2を振り返ってみる。

 

2.いじめ問題の実態‐プリキュアASNS2でのテーマとは‐

 「いじめ問題を扱う」といっても、その言葉の定義は、とても曖昧なものであり、様々な形態をもつ不明瞭なものである。この点が、いじめが深刻な社会問題となっている1つの要因である。軽いイタズラや冗談半分で起こした行為を「いじめ」と捉えるか「仲間内でのコミュニケーションの1つの形」と捉えるかは、個人差が出る問題であり、他人から見ても判断しづらい特徴を持つものが「いじめ問題」だ。そのため、いじめの発見が遅れ、不登校の生徒が発生したり、最悪生徒を自殺に追い込む結果となってしまうのだ。こういった曖昧な意味を持つ社会問題である「いじめ」に対して文部科学省はいじめによる苦痛の判断を以下のように定義している[4]

 

自分より弱い者に対して一方的に

身体的・心理的な攻撃を継続的に

相手が深刻な苦痛を感じている

 

何度も言うように、現代の「いじめ問題」は多様化され、必ずしもこのケースに全て当てはまるものだけが「いじめ」であるとは決して言いきれるものではないだろう。しかし、今回の事件を含め、多くの報道される「いじめ問題」は以上の条件を含んだものが、大半であることは間違いない。よって、本稿では以上の条件を含んだ「いじめ問題」とプリキュアASNS2についての関連性について、言及していこうと思う。ではここで、プリキュアASNS2の簡単なあらすじと共に、作中で扱われた「いじめ問題」のケースを整理していくことにする。

 

  • 「いじめ」の加害者と被害者

今作で「いじめ問題」の担い手となるキャラクターが妖精学校に通うグレルとエンエンである。学校というコミュニティを舞台設定にしたという点も製作陣が「いじめ問題」にある程度のリアリティを持たそうと試みた結果であろう。では、簡単にこのキャラクターたちの紹介をしよう。

グレル

いたずらっ子で、自分勝手な妖精。自分のことを誰もわかってくれないと思い込んでいる。しかし、一人ぼっちのエンエンに声を掛けたり涙を拭ったり優しい一面もある。クラスの人気者になりたいがために皆には隠しているがプリキュアを羨んでいる。

エンエン

おとなしくて泣き虫な妖精。プリキュアのことが大好きで勉強熱心。プリキュアの妖精に憧れているが、自分の引っ込み思案的な性格のせいで無理だと諦めている。

影水晶

妖精学校の敷地内に封印されていた水晶。心の中の妬みを察知し、そうした心の持ち主を呼び出す。今作ではグレルの心の影が具現化した存在となり、プリキュア達と敵対する関係になる。元々は、自分の弱い心と向き合う為の物だった。

 

図1:左からグレル・エンエン     図2:グレルの心の影を映した影水晶 

f:id:rumas-zentai:20160428175642p:plain   f:id:rumas-zentai:20160428175715p:plain

 

 ©東映アニメーション          ©東映アニメーション   

 

  • どのような「いじめ」を起こしたのか

今作で起きたいじめに該当する箇所を述べる前に、簡単に物語のあらすじを紹介しよう。そして、そこから見えるいじめについて言及していくことにする。

舞台は、プリキュアの妖精になるために勉強する妖精が通う妖精学校。そこではプリキュアの人気を妬むグレルが心の影を映す「影水晶」から生まれた自分の影と共に行動するようになる。ある日、妖精学校からプリキュア達の元に「プリキュアパーティ」の招待状が届く。しかし、それは影と影に唆されたグレルによる罠で、影は訪れたプリキュア達から変身アイテムやパートナーである妖精達を奪い、水晶化させてしまう。

泣き虫の妖精、エンエンは影に言われるがままにグレルの行動を止めようとするが勇気を出せないままグレルに巻き込まれてしまう。そしていつしか影はプリキュアを倒したことで巨大な力を身につけ暴走を開始し、グレルが望まなかったことま引き起こしてしまう。一方、みゆきとキャンディ[5]に誘われる形でパーティにやってきたマナたち『ドキドキ!プリキュア[6]』の4人だったが、影から逃げ惑うグレルとエンエンと出会い、事の次第を知る。4人と2匹は影の暴走を止め、プリキュア達を元に戻すため、行動を起こす。

 以上が物語の簡単なあらすじ[7]である。この物語に見えるいじめの要素について、特に注目したいのは、グレルと影水晶によるプリキュアへの攻撃と、エンエンに対する一方的な「悪事の強要」という2点である。そもそも、「いじめ」という問題に登場する人物は、「いじめ」にあたる悪事を行う「加害者」。加害者によって「いじめ」を受ける立場にある「被害者」。いじめに対して抑止力を与える勇気のある人物「抑制者」。後で関わりたくない、自分には関係ないと思った、自分がいじめられることが嫌だったからという理由でただ傍観しているだけの「傍観者」が存在する。それらを意識して、ここでの2匹間の会話を詳しく見て行きたい。

 物語が進むうちに、グレルと「影水晶」は次々と歴代のプリキュアを陥れることに成功する。一緒に行動していた臆病者のエンエンは悪事を働くグレルたちをただ傍観してるしかなかった。仮にこれをいじめと仮定した場合、先程のモデルに当てはめると、「グレル・影水晶=加害者」「エンエン=傍観者」「プリキュア被害者」という構図が成り立つ。このグレル達のプリキュアに対する攻撃をいじめと仮定するのは少々強引かもしれない。しかし、ここで重要な点はいじめ構造において、問題視される「傍観者」の登場する舞台が整ったことにある。「傍観者」についての詳細は後述を参照してもらいたい。

次々とプリキュア達を追い詰めていくグレルと「影水晶」は、次の標的をスマイルプリキュア[8]の5人にする。ここで「影水晶」はエンエンに彼女たちの変身アイテム「スマイルパクト」を取ってこいと告げる。もちろんエンエンは拒否するのだが、そこの会話に、ある意味典型的な「いじめ問題」の光景が描かれていたので、確認してみる。

 

エンエン「ぼ、ぼくはいいよ…見てるだけで…。」

影水晶「今さら、何言ってんだ?俺たちのやることお前は見てたのに止めなかった。俺たちと同罪だぞ」

影水晶「こんなやつほっとこうぜ。一緒にいたってつまんないもん。」

図3:悪事の強要を迫るグレルと影水晶

 

f:id:rumas-zentai:20160428175806p:plain

  ©東映アニメーション

この後、エンエンは不本意ながらも脅されて、プリキュア達から変身アイテムを奪おうとするのだ(失敗に終わるが)。

傍観者には複数のパターンが存在する。例えば、被害者にも非があるから仕方がないと加害者を正当化しているタイプがある。他にもいじめに無関心なタイプや、いじめを仲裁したいが、臆病になってできないタイプやなど様々な形態がある。今作におけるエンエンの場合は気の弱さが表面的に現れ、良心を持ちながらも自分の言いたいことを言えない姿で描かれている。このタイプの傍観者は「いじめ問題」に対して「自分から申告すれば、いじめの標的が自分になってしまうのではないか」「所詮、自分の力ではどうにもできないのではないだろうか」と保守的な行動をとり、身の保証を第一としてしまうことで、「いじめ問題」の解決が円滑に進まなくなり、「いじめ問題」の発見が遅れる大きな要因である。さらに、このような保守的傍観者は、傍観者から加害者への転換が稀に起きるとされている。これがどういった現象なのかというと、一度いじめを黙認してしまうと、加害者には同じグループの人間だと思われてしまい、「自分がいじめられたくない」「仲間はずれにされたくない」という気持ちから、いじめに対して手を貸してしまうものである。これを繰り返すことで、加害者が周囲を従え、いじめを放置することによって現代の「いじめ問題」は日々深刻さを増していくのである。

 このような、社会的に問題になっているいじめの典型的な舞台をエンエン・グレル&影水晶・プリキュアの3者で成立させ、具体性をもった内容に仕立てあげた。しかし、このままでは、梅澤も危惧していた暗くて、陰湿な物語になってしまう。いじめを取り上げる以上は、それに対する回答を提示しなければならない。ではプリキュア達は「いじめ問題」に対してどう立ち向かったのだろうか。

 

3.プリキュアが伝えたかったこと‐いじめ問題に対するケア‐

 前章で説明したグレルとエンエンの持つ気持ちは、現実社会でも起こりうる、誰でも子どもなら持つ気持ちである。このように、現実社会に訴えかけるような作風こそがプリキュアの大きな1つのテーマだとプロデューサーの梅澤淳稔はインタビューで語った。では、このような「いじめ問題」をテーマとすることで、子ども達に何を伝えたかったのかだろうか。別のインタビューで梅澤はこう答えた。「今回は子どもたち自身が、いじめにつながっていく気持ち弱い気持ちを克服して成長していく、それをプリキュア32人が全面的にバックアップするという物語にしました。プリキュアの根底には愛、献身というテーマが流れていて、それはどのシリーズでもいっしょです。[9]実際にプリキュアたちはグレルとエンエンに手を差し伸べ、彼らを救済に導く手助けを行った。では今作でのプリキュアたちがグレル・エンエンに対してどのような行動を起こしたのか具体的に考察していくことにする。

 「影水晶」の行動はグレルがしたかったイタズラの域を越え、暴走してしまう。自暴自棄になったグレルは泣き続けるエンエンにこう迫る。

 

グレル「言いたいことがあるなら言えばいいだろ! 言えよ俺のせいだって! ああ、ああそうだよ俺が全部悪いんだよ!」

 

そう告げたグレルはエンエンと共に泣きだしてしまう。そこでドキドキプリキュアの主人公であるキュアハートが手を差し伸べる。

 

ハート「泣きたくなることってあるよね。怒りたくなることもあるよね。でも泣いたり怒ったりしてても楽しくないでしょ? 楽しくないことはやめちゃお、ねっ。」

グレル「でも、もうどうにもできないし…。」

ダイヤモンド「それはあなた次第だよ。 どうにもできないから諦めるか、どうにかするために行動するか。私たちが協力するからさ、本当はどうしたいの?」

グレル「こうなったのは俺のせいだから…だからアイツを止めたい。」

 

 これはプリキュアたちが失敗を犯し、立ち直れなくなってるグレルに対して反省することの大切さを教え、自分のできる行動をするように促している。ドキドキプリキュアの存在は先に述べた「いじめ問題」における抑制者に当たり、「いじめ問題」の加害者に対して、当人の心のケアとなるものである。さらに、いじめ問題の解消にあたる教師の役割もプリキュアたちはこなしているのだ。いじめの相談を受ける際の3つの手順として、「信頼関係をつくる」「問題の核心をつかむ」「適切な処置をして問題を解決する」[10]この3手順をこなす必要がある。プリキュアたちはこのわずか5分の会話でそれら全てをこなし、いじめ問題の当事者達へメンタル的なケアを施している。

続いて傍観者であったエンエンに対して、キュアロゼッタは、こう告げる。

 

ロゼッタ「あなたはどうしたいのですか? 泣いている自分は好き?嫌い?」

エンエン「嫌い…。」

ロゼッタ「ではどんな自分になりたいですか?」

エンエン「ぼくは…ぼくは笑いたい…。キュアハッピーが伝えてって『ちょっとピンチ、助っ人お願い』って…。」

ソード「ちゃんと言えたじゃない。自分の言いたいこと。」

エンエン「い、言えた…」

 

 

図4:泣き崩れるグレル     図5:妖精たちに説得を試みるプリキュア

f:id:rumas-zentai:20160428175904p:plain   f:id:rumas-zentai:20160428180454j:plain

©東映アニメーション        左からハッピー・ロゼッタ

                    ©東映アニメーション

 

 泣いてばかりで話にならないエンエンに対してロゼッタも同様に心のケアとなる導きを示し、エンエンが自分の伝えなくてはならない自分の意志を伝えることができたのだ。彼女の行動はいじめの傍観者だったエンエンに対して、いじめられた側の苦しい気持ちを理解させると共に、一人ひとりの具体的行動についてどのように受け止めたら良いのか理解を促し、正しいことを勇気を持って伝えようとする指導が形作られているのだ。

 こういったプリキュアの行動に対してジェンダー論の研究者佐倉智美[11]は「ケアとキュアの論理」と定義づけた。プリキュアを含め女児向けアニメにとって主人公たちが戦う世界観というものは世界の命運を賭けたビッグなものではなく、あくまで自分たち周辺の「日常」であるということ。よって敵となる存在はその「日常」を犯してくる侵略者であり、彼女たちの戦う意味、そしてその境遇はどこまでも受動的である[12]という特徴があるのだ。

彼女らの舞台が身近な「日常」であるという以上、物語の主軸を担っている要素が「仲間との関係性の中で相互に配慮し合い、気持ちを尊重し合い、時には癒しあうことの大切さ」であり、多くの人々との間で「共感・協調・共生」が形作られているという点である。

 そして今作の映画でもこの「ケアとキュアの論理」に則って、プリキュア達はいじめに苦しむ2匹の妖精たちに救済を施したといっても良いだろう。

 

4.まとめ

以上のように、プリキュアという作品が「いじめ問題」に対して、どのような提言をしてきたのか述べてきたが、私はこの作品を見た親子に今一度「いじめ問題」の深刻さを確認してもらいたいという思いも本稿に込めている。プリキュアという劇場作品は特殊なもので、視聴者となる女児だけにウケが良い作品を作っている訳ではない。劇場に足を運ぶのは、子どもと、その親であり、その親の反感を買う作品を作れば非難されることもある。プリキュアという作品はこれまで常に親の目線を意識して製作されてきた。物語に教育的・倫理的な描写を含むことが多い子供向けアニメは非常にメッセージ性の強い作品である。親子で映画を見て「楽しかったねー」「可愛かったねー」で終わる。これも映画の1つの楽しみ方かもしれない。しかし、感受性の豊かな子どもたちは、プリキュアと妖精たちの会話を聞いて、何か感じるものがあるのかもしれない。子どもたちの話を聞いて、その感想が、製作陣の挑戦した「いじめ問題」への提言に繋がっていたら何よりそれは喜ばしいことなのではないだろうか。教育評論家の尾木直樹[13]はこう述べた。「あくまでも一緒に考える姿勢で自分の感じ方を述べ、同時に我が子の受け止め方にも耳を傾けることです。若い世代には若さゆえのすばらしい感性がひらめくことも珍しくありません。まず、それらの輝きを大人の側が受け止めることが大事でしょう。‐中略‐父母の喜怒哀楽の反応を通じて、我が子にも、ものの見方考え方が伝わります。また、親の方から見ると少しは我が子の心の内面を知ることにもなります。[14]このように親は子どもの感受性を育てるためにも、プリキュアASNS2での妖精たちとプリキュアのやりとりを見て、簡単でもいい、夕食を食べながら、話し合う場があってもいいのではないだろうか。

 最後に今作を含め、プリキュアが作品全体で表現している主題を再確認して、本稿を締めることにする。第一に、これから小学生になろうとしている子どもたちへのメッセージ、これは明らかだ。繰り返しになるが、プリキュアシリーズを含め、子供向け作品の大半は物語に教育的・倫理的な描写を含む情操教育的な内容を含むものである。本作品も、そういう子どもに影響を与えるある種メッセージ的なものとも言えるだろう。第二に、この作品は、子供だけではなく、親に対するメッセージでもあるというのだ。本作品は劇場作品であり、映画館まで子どもが一人足を運ぶなんてことはまずありえない。よって子どもだけでなく、親にも興味を持たせるような作品を制作陣は作っているのだ。親と一緒に作品を鑑賞する時間はとても貴重なものである。どんな作品であっても、親はその作品で子どもがどういった影響を受ける可能性があるのかということまでを知る必要があり、じっくり話し合うことが大切なことである。そこで、子どもの考えを受け入れて、価値観の共有こそが将来の子どもたちのいじめ防止に繋がる情操教育とアニメの関わり方であると私は考えている。

 

 

 

 

 

 

【参考資料】

[1]竹川邦雄『いじめ現象の再検討』法律文化社 2006年

[2]乙訓稔『幼稚園と小学校の教育』東信堂 2011年

[3]田中美子『いじめのメカニズム イメージダイナミクスモデルの適用』 世界思想社 2010年

[4]岩田純一 『子どもの発達の理解から保育へ』ミネルヴァ書房 2011年

[5]尾木直樹 『子育てとテレビ新事情』新日本出版社 2004年

[6]澤口俊之 『幼児教育と脳』文藝春秋 1999年

[7]増田のぞみ 『女の子向けテレビアニメを問う –プリキュアシリーズの挑戦-』 『年報』「少女文化研究」2009年

[8]加藤レイズナ 『プリキュアシンドローム!〈プリキュア5〉の魂を生んだ25人』幻冬舎 2012年

[9]日刊スポーツ『プリキュア新聞2013年春号』 2013/03/12

[10]『アニメージュ』2013年4月号P8 梅澤淳稔インタビュー

[11]『アニメージュ』2013年5月号 P93,94 小川孝治監督インタビュー

 [12]須川亜紀子『少女と魔法‐ガールヒーローはいかに受容されたのか』NTT出版 2013年

[13]ひこ・田中『ふしぎなふしぎな子どもの物語‐なぜ成長を描かなくなったのか‐』光文社新書 2011年

[14]小林雄二『特撮ヒーロー番組のつくりかた』キネマ旬報社 2012年

[15]エキレビ『32人のプリキュアはいじめにどう立ち向かうのか「映画プリキュアASNS2」梅澤淳稔Pに聞く』 http://www.excite.co.jp/News/reviewmov/20130315/E1363286951371.html

 

[1] 以下「プリキュアASNS2」と表記

[2] 2007:フレッシュプリキュア ~ 2012:スマイルプリキュアまでのプロデューサーを担当

[3] 2013年3月12日日刊スポーツ「プリキュア新聞」梅澤淳稔インタビューより

[4] 「当該児童生徒が、学校の内外問わずに、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」という定義が文部科学省から発表された

[5] 2012年放送されたスマイルプリキュアの主人公星空みゆきキュアハッピー)とその妖精キャンディ

[6] 相田マナ(キュアハート)・菱川立花(キュアダイヤモンド)・四葉ありす(キュアロゼッタ)・剣崎真琴(キュアソード)・円亜久里(キュアエース)の5人からなる現在放送中のプリキュア

 

[7] プリキュアASNS2パンフレットより

[8] 2012年放送された星空みゆきことキュアハッピーを中心としたのプリキュア。今作では戦闘不能になる直前に、ドキドキプリキュアに対して助けを求める伝言をエンエンに託す

[9] 2013年3月12日日刊スポーツ「プリキュア新聞」梅澤淳稔インタビューより

[10] 全国webカウンセリング協議会(http://www.ijimesos.jp/教師がいじめの被害者-加害者に対応する上での留意点/)より

[11] ジェンダーセクシュアリティライターとして活躍。現甲南大学非常勤講師。著書に『性同一性障害社会学』など

[12]少年漫画の主人公は野望が主軸にある話が多い(ドラゴンボール=7つのドラゴンボールを集める・ワンピース=海賊王になる)のに対して、プリキュアは敵が攻めてこない限り、戦闘になることはない

[13]教育評論家・法政大学教授 尾木ママとして多数のメディアに出演 著書に『尾木ママの「脱いじめ」論など

[14]尾木直樹『子育てとテレビ新事情』より

 

 

いかがだったでしょうか?これからも月一で掲載していきますのでよろしくお願いいたします。