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立命館大学メディア芸術研究会

立命館大学学友会学術部公認団体「メディア芸術研究会」の公式ブログです。ブログや当会についてのお問い合わせは 2010mediart@gmail.com まで 公式ツイッターもご覧ください。 https://twitter.com/rumas_n

復刻版6月号

ZINLOSS復刻版

3回目の「ZINLOSS復刻版」のコーナーです。今回は2012年秋号vol.12よりがはく氏の「日米ヒーロー像比較論」です。ではスクロールしてどうぞ。

 

 

日米ヒーロー像比較論

アメリカン・ヒーロー日本でもヒーローになれるのか~

    

がはく

 

はじめに

あらゆる国において、正義を遂行し人々や世界を救う存在としてヒーローが存在し、そのヒーローを中心に据えた物語作品が数多く存在する。日本でも数多くのヒーロー物作品が存在する。ウルトラマン仮面ライダー、戦隊物のヒーロー達はもちろん、『ドラゴン・ボール』『NARUTO-ナルト-』、最近では『TIGER&BUNNY』など数多くの作品が挙げられる。また、近年ではマッドハウスにより、『アイアンマン』、『X-MEN』、『ブレイド』などアメリカン・コミックスの代表的な出版社であるマーベル・コミックのヒーロー作品を映像化したものが放映された。しかし、一言にヒーローと言っても各国や地域において、そのヒーローの在り方には異なる点が見られる。今回は日本とアメリカにおけるヒーロー像を比較し、そこからアメリカン・ヒーローは日本において受け入れられるのかについて論じていく。

 

アメリカ的なヒーローとは

 まずはアメリカ的なヒーロー像について論じていく。亀井俊介氏の『アメリカン・ヒーローの系譜』によると、アメリカのヒーローの特徴はピルグリム・ファーザーズと「アメリカのアダム」をキーワードとしているとされる。「アメリカのアダム」とはアメリカというヨーロッパ文明の影響を受けていない未開の地で清教徒の信仰の自由を実現しようとしたピルグリム・ファーザーズのことを言う。

彼らは未開の原始的な自然を有していたアメリカ大陸を「荒野(Wilderness)」呼んだ。この「荒野」とは聖書の中の「出エジプト記」において、モーセによる導きによりイスラエル人がエジプトからの支配を逃れ、約束の地「カナン」に脱出する際にイスラエル人たちが歩んだ砂漠のことを言う。

ピルグリム・ファーザーズは自分たちが旧世界であるヨーロッパ大陸から新世界であるアメリカ大陸に脱出する様をこの「出エジプト記」になぞらえ、未開の地であるアメリカ大陸を「荒野」と呼び、その「荒野」という試練を乗り越えることで、約束の地である「カナン」、つまり自分たちの理想郷にたどりつくという意志を持ったのである。この時、彼らはこの人間の手が入っていないアメリカ大陸を「新しいエデン」と呼び、自分たちをその土地にすむ無垢で純粋な存在であり、たくましい開拓者として自身たちを「アメリカのアダム」と称するようになった。

そして、彼らはこのアメリカという荒野に立ち向かう自然人を人間の理想像とし、誇りとすると同時に英雄とした。これが現在まで続くアメリカのヒーロー像の本質であるとされている。

また、このように荒野に立ち向かうたくましい人間を理想のヒーロー像としていることから、アメリカにおけるヒーローは強靭で大きな肉体をもつものとされることが一般的である。これは単にフロンティア時代において、開拓者に強靭な肉体が必要とされていたためだけでなく、高度な知性を象徴するヨーロッパ文明に反抗するために反知性的で野性的な肉体を対抗する存在として無条件の信頼を得るようになったのである。そのため、アメリカで英雄的な存在として扱われる人物は実際よりも大きく強靭な肉体を持った人物として描かれることが多い。この特徴はアメリカの西部劇からも見てとれる。カウボーイは馬に乗って何キロもの距離を移動するため、カウボーイが大柄な人間である場合、馬がすぐに疲弊してしまう。そのため、本来カウボーイは体重の軽い小柄な人物である必要があった。しかし、西部劇でのジョン・ウェインクリント・イーストウッドといった俳優たちはみな大柄な人物である。ここからも、アメリカにおいて、ヒーローとは大きく強い肉体を持った存在であるべきという考えが一般的であるということが分かる。

さらに、アメリカではヒーローは成功者でなければならないとされる。フロンティア時代では失敗はそのまま破滅を意味していた。この思想は現在でも根付いており、あらゆるジャンルにおいて成功者は国民的英雄、すなわちヒーローとして扱われる場合が多い。アメリカン・コミックのヒーローにも社会的成功者であるキャラクターは多く、『アイアンマン』のトニー・スタークは大企業スターク・インダストリーズの社長であるし、『バットマン』のブルース・ウェインは大企業ウェイン・エンタープライズ筆頭株主であり、大富豪である。例外的に、ジョン・F・ケネディのように、その死によって英雄的な面が強く表れる場合もあるが、それはあくまで例外である。また、ヒーローには進取の精神が期待され、常に積極的な行動をすることが要求される。これは、何らかの成功をおさめるためには、停滞することは許されず常に前進しなければならないというフロンティア精神的な考え方に基づいたものと言える。

そして、アメリカのヒーローはアダムでありながら、アメリカの未開拓の地という荒野を開拓し人間社会に繁栄をもたらすという使命が存在する。このため、ヒーローには道徳性が求められ、不自然な形式主義を打ち破る力やある種の奔放さは許されるものの、社会的なモラルは厳格に守らなければならないとされている。ここには清教徒の伝統に基づく道徳観念が現れている。

加えて、アメリカにおいて、ヒーローは独力で事をなすことが重要視されている。単独での大西洋無着陸横断飛行を成し遂げたリンドバーグはその典型例と言える。また、アメリカン・コミックスにおいてもその思想は強く現れており、ヒーロー達は基本的に単独で事の解決にあたっている。

 

日本的なヒーローとは

 次に日本的なヒーローの特徴を挙げていく。日本におけるヒーロー像はアメリカとほぼ真逆と言ってもよい。まず、体格であるが、日本のヒーローは小柄な人物、または少年子どもの場合が多い。おとぎ話に登場する一寸法師や金太郎、桃太郎などはいずれも子どもであるし、牛若丸と呼ばれた源義経もまた線の細い美少年というイメージで広く日本に浸透している。アニメや漫画においても、うずまきナルトモンキー・D・ルフィといいた主人公たちはいずれも少年と呼ばれるような若者ばかりであり、筋骨隆々としたキャラクターが主人公となっている作品もあるとはいえ、全体で見れば少ないと言えよう。これは日本の諺で「大男総身に知恵がまわりかね」と言われるように、日本においては大きな体格の人間は愚鈍なイメージが連想されやすいことが原因と言える。

また、内田樹氏の「街場のアメリカ論」では日本のヒーローの象徴として「無垢な子供しか操縦出来ない巨大ロボット」を挙げている。『鉄人28号』では金田正太郎少年が『魔神ガロン』ではピックという少年が操作操縦することによって初めて機能するし、『マジンガーZ』、『機動戦士ガンダム』、『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公はいずれも少年である。内田氏はこれを戦後日本における「自衛隊」と「憲法9条」というねじれ、つまり戦前の軍国主義的なものと戦後の戦後の民主主義、平和主義的なものの間に存在するねじれと、アメリカと日本のねじれという問題を物語的に解決するものであると説明している。戦後において大人たちが同じ失敗を繰り返さないことを子どもたちの無垢な心に期待し、巨大ロボットに大人という存在を投影し、自分たちを正しく導いてくれる存在として子供に期待しているのだとしている。そして、内田氏はこの物語群を日米関係にもあてはめ、アメリカという巨大な軍事力を日本が操っているという考え方を示しているとしている。

もっとも、過去から日本においては少年や華奢な人物がヒーローとして描かれていたことを考えると、戦後の日本漫画、アニメでよく見られる少年と巨大ロボットという組み合わせは日本人の昔からの美意識が根底にあるように考えられる。小さな存在である少年が自分よりもはるかに大きな存在である巨大ロボットを操る姿は、源義経が大男である武蔵坊弁慶を打ち負かし従えたこと、桃太郎や一寸法師が巨大な鬼を倒して財宝を得た話などに見られるように自分より大きな存在を打ち負かし支配服従させる、あるいは退治するという姿に重なるものがあると言える。このように、日本では小柄な者や少年子どもがヒーローとして扱われる場合が強い。

次に日米のヒーロー像の違いとして挙げられるのが、ヒーローが成功を収めるか否かである。日本では最終的に成功を収めた人物はヒーローになりにくいと言える。アイヴァン・モリス(Ivan Morris)による『失敗の高貴さ―日本史の悲劇的な英雄たち(The Nobility of Failure: Tragic Heroes in the History of Japan)』で、彼は西洋の「目的成就のエートス」と対立する「複雑な日本的伝統」を指摘している。彼は「圧倒的に旧套墨守の傾きがあり、権威と先例に人々が威圧されている社会にあって、義経や隆盛のような性急で反抗的で感情の正直な人は、特別の魅力を持つ。・・・彼らのあらゆる奮闘が失敗に終わったことは、彼らの生涯に一抹の哀愁をさそう力を与え、人間の努力の空しさをはっきりさせると同時に、彼らを最も愛され慕われるヒーローにする。」とも述べている。モリス氏が示唆するように、日本人のヒーロー観には「敗北の美学」とでも呼ぶべきものが存在すると言える。源義経西郷隆盛のほかにも、武田信玄坂本龍馬といった日本で英雄として扱われている人物の多くはその志半ばで倒れている。『あしたのジョー』の矢吹ジョーが最終話で敗れたのも日本人のこのヒーロー観から来るものと言える。

そして、アメリカのヒーローと異なり、日本のヒーローには集団でヒーローと認知されるものが多い。赤穂浪士真田十勇士、またアニメ漫画では『サイボーグ009』『秘密戦隊ゴレンジャー』『美少女戦士セーラームーン』『プリキュアシリーズ』などが挙げられる。アメリカン・コミックスにも『ファンタスティック・フォー』『X-MEN』などが挙げられるが日本のそれと比べるとはるかに数が少ない。これは日本の個より集団を優先する集団主義に基づくものと考えられる。

 

アメリカン・ヒーローは日本に受け入れられるのか

 以上のように比較してきたが、アメリカン・ヒーローと日本のヒーローはほぼ真逆の存在である。もちろん、日本にもキン肉マンケンシロウのような筋骨隆々なヒーローは存在するし、常にヒーローの敗北を美学として捉えているわけではなく、ヒーローが目的の成就に失敗すればそれを非難することも多い。

日本のヒーローとアメリカン・ヒーローの間にある最も大きな違いはヒーローが守護者であるか破壊者であるか、という点である。アメリカン・ヒーローピューリタンの伝統に則り、厳格なルールや社会的モラルの下で活動し、社会や文明の発展の貢献し、男女関係や家族関係なども含んだあらゆる道徳を遵守する正義の存在として描かれる。つまり、アメリカン・ヒーローは社会や国家を守護する者として扱われていると言える。これに対して日本のヒーローは社会や国家、組織の破壊者であることが多い。平将門織田信長高杉晋作といった英雄と呼ばれる人物たちは古い慣習を破壊し、新時代を築こうとしてきた人物ばかりである。そして、うずまきナルトケンシロウといったアニメ、漫画のヒーローたちも世界に風穴を開け、新たな時代を築いていこうとするキャラクターが多い。ここから考えられるのは、日本人はヒーローに対して変革を求めている傾向があるということである。ただ単に善政をしき、悪を罰するだけではなく、さらに変革をもたらすために活躍する人物に魅力を感じているのだと考えられる。そのため、社会的に悪とされる存在を滅ぼすことに重きを置き、変革よりも安定を与えるアメリカン・ヒーローは日本人には受け入れられにくいものだと考えるべきである。

 

参考文献

赤穂浪士はアメリカでヒーローになれるか:ヒーローの日米比較』山下興作 高知大学学術研究報告 第46巻(1997) 人文科学

アメリカン・ヒーローの系譜』亀井俊介 研究社出版 1994年第4版

『街場のアメリカ論』内田樹 文藝春秋 2010年初版

 

いかがだったでしょうか? 次回もお楽しみに。