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立命館大学メディア芸術研究会

立命館大学学友会学術部公認団体「メディア芸術研究会」の公式ブログです。ブログや当会についてのお問い合わせは 2010mediart@gmail.com まで 公式ツイッターもご覧ください。 https://twitter.com/rumas_n

合同公演会の告知 9/25

告知

皆様、まだまだ暑い日が続いておりますがバテていませんか?(私はバテてます)  コミケも終わり、活動はしばらくお休みしていますが、来る9/25(日)に「SPOT編集部」さん http://spotrits.wixsite.com/spot 、 

NPO法人「AEYAC」さん  http://waka-ani2015.jimdo.com/

と合同で、『アニメ研究セミナー ~アニメのいろはを学ぶ~』を開催いたします。

 

日時 2016年9月25日(日) 13:00~16:30

場所 立命館大学 衣笠キャンパス 清心館507

アクセス  http://www.ritsumei.ac.jp/accessmap/kinugasa/

 参加費無料 当日参加自由

講演者 (敬称略)

 浜津 守 (大手前大学メディア芸術学部教授)

    「アニメーション制作と阪神の可能性について」

 津堅信之 (日本大学芸術学部映画学科非常勤講師)

    「アニメの歴史を研究する意義について」

 

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 詳細は http://spotrits.wixsite.com/spot/blank-4 で。

お時間の都合がつくようでしたらぜひお越しください。

皆様のお越しをお待ちしております。

 

コミックマーケット80の告知

告知

 夏ですね。私はというと着実に一日一日を無駄にしております。

 さて、明日からコミックマーケット90ですが、当会も例年通り出展いたします。

3日目(日曜)、場所は東地区モ-09aです!

持って行くのは今年の新歓号として発行した「ZINLOSSvol.19」です。一冊¥500で販売いたします。

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このvol.19の掲載原稿は

・課金ゲームにおけるインフレの考察

・テレビアニメの放送時間に関する考察

任天堂の独自ハード戦略は間違っていたのか

ユーフォニアム児童ポルノを暗示するのか

ヨルムンガンドから見る世界の武器

・こんな世界は壊してしまえ 

の6本です。

また、当日は同大学BKCにある、立命館ジャパニメーション批評協会RICSの会誌 りっくすの本18」も委託販売という形で一冊¥500で販売します

というわけで、コミケに行かれる皆さん、お時間がございましたらよろしくお願いします!

復刻版7月号

ZINLOSS復刻版

さあ今回も復刻版お届けしますよー。 今回はちょっと新し目、2014年秋号vol.16 よりひぽぽたますP氏による「ざわめきを作画する」をお届けします。少し長いですが、スクロールしてどうぞ!

 

 

               ざわめきを作画する

                                ひぽぽたますP

 


第1章:はじめに

 アニメ批評は、いつまでキャラクターと向き合わなければならないのだろう。いつまでアニメを「読んで」いるのだろう。大塚英志は「まんが」と「アニメ」を区別すらしなかった。東浩紀やそれに追従した多くの批評も記号や言葉尻を追い、アニメを「観て」はいなかった。アニメが真に語られるために、アニメは記号やキャラクターから一度解放されなければいけない。なぜなら、アニメをアニメ足らしめているのは「絵が動いている」ということだけだからだ。我々はアニメを語る時、物語と同時にその「動き」に目を向けなければならない。

 WEB系と呼ばれるアニメーター達がいる。彼らはネット時代を象徴するように、それまでにはない新しい作画への思想と態度を持って2000年代中盤から登場した。彼らはキャラクターの身体も奔放に崩し、とにかくアニメで動かすことを喜んでいた。しかし、今、そのような姿勢は時代に逆行している。いや、時代に淘汰されようとしていると言っても良い。アニメーターの動かしたいという思いと、今の日本のアニメ視聴者が求めていることとは食い違ってしまっているのだ。なぜなら日本のアニメが、キャラクターを見せるためのものとして成長してきたからだ。勿論、日本のアニメも「動き」を喜ぶ作り手と視聴者がいて、様々な「動き」を手に入れようとしてきた。そして、それに憧れて現れたWEB系は、その作画に独特の「ざわめき」を持っていた。しかし、その「ざわめき」は時にキャラクターを邪魔するノイズとして拒絶される。こうして「動き」を見ることが出来なくなった、あるいは「ざわめき」を受け取ることの出来ないアニメ視聴者の存在が浮き彫りになったのである。よって本稿は「キャラクター商品としてのアニメ、またその視聴者」と、「動きを見せる媒体としてのアニメ、またその作り手」という対立軸を設定し、アニメを描く者が「動き」に純化していくことへの擁護を目的とする。

 

第2章:前提としている作画史概観

 この章では、本稿で前提としている作画史観を記述する。尚、作画史を体系的に記した論文は存在しないため、既にある様々なアニメ史と、インタビュー等から読むことの出来るアニメーターの証言を元にしている。また、多くの人名が記されているが、本論に深く関わりのある人物のみ、脚注で紹介することとする。

 日本のTVアニメは「動かないキャラクター映像」として始まった。『鉄腕アトム』(1963)である。手塚治虫は一週間に一話放映するアニメの制作費と作業時間を減らすために、とにかく動画枚数を減らし、止め絵でなんとか時間を繋ごうとした。こういった「動かさないアニメ」はリミテッドアニメーション(5章脚注参照)と呼ばれ、現在まで日本のTVアニメほぼ全てを貫いているアニメの作り方だ。しかし、日本のアニメが「動き」を放棄していた訳ではない。国産初の長編アニメーション『白蛇伝』(1958)を作った東映動画は、東洋のディズニーとなることを目指し、フルアニメーション(5章脚注参照)で動かすことに信念を持っていた。そこでは宮崎駿芝山努などの後の大監督や、大塚康生がアニメーターとして活躍しており、彼らが作り出す「動き」は決してディズニーに引けを取る物ではなかった。高畑勲の事実上初監督作品でもある『太陽の王子ホルスの冒険』(1967)はその集大成として見ることが出来る。

 日本のリミテッドアニメーションは60年代後半に入ると、劇画の流行に乗り、止め絵に大量の線を描き込むことで迫力のあるアニメを作るようになった。そこで『巨人の星』(1968)や『アタックNO.1』(1968)、『タイガーマスク』(1969)等の名作が生まれ、さらにリミテッドの方法論を発明し、駆使する出崎統等の大監督が活躍するようになった。

 1970年代には、日本のキャラクターアニメの地位を確固たるものにする、ある礎が築かれた。それが高畑勲宮崎駿らによる『アルプスの少女ハイジ』(1974)である。この作品は、日本でいち早くキャラクターデザインという役職や、レイアウトシステム[1]を導入し、シリーズ全体のクオリティを均質に保つことに成功した。そして、そこで養われた方法論・技術が、やがて世界中で愛される「ジブリ」へと実を結ぶことになるのである。

 一方で、1970年代後半には金田伊功が現れた。奇抜なパースやポーズで、少ない動画枚数でもダイナミックにアクションしているように見せるその作画は人気を博し、「金田フォロワー」とも呼ばれる金田の様式を模倣するアニメーターの一群を生み出した。1980年代には「金田フォロワー」による多数の「暴走作画」が見られ、時にはストーリー上の流れも無視するようなアクション過多な作画でマニアを喜ばせた。特に、山下将仁による『うる星やつら』での金田系作画は、本来「ラムちゃん」という人気ヒロインを擁する、キャラクター中心の作品(今で言う萌えアニメ)として見ていたマニアに、アニメの「動き」を知らしめることとなった。さらにこの時期は板野一郎の台頭も無視出来ない。板野による緻密なカメラワークと作画を組み合わせた縦横無尽のミサイルは「板野サーカス」と呼ばれた。そう、この時アニメはキャラクター以外にも主役を持つことが出来るようになっていたのである。むしろ「板野サーカス」に代表されるミサイルやメカ、それが飛び散る大爆発こそ、アニメーターの真価が発揮されるアニメの醍醐味ですらあった。

 1980年代中盤からはOVAの流行もあり、なかむらたかしを中心に、細部へのこだわりによって密度を高めるリアル志向が見られるようになった。そうして『王立宇宙軍 オネアミスの翼』(1987)や『AKIRA』(1989)が生まれ、超高密度ながらもよく動く名作として、現在まで親しまれている。そのようなリアルな作画を支えるための理屈に沿った画面上の空間作りと、演出家による画面の効率的な管理を目的として、押井守が積極的にレイアウトシステムの導入を図った。これが現在のアニメ制作のスタンダードとなっている。そんな中、うつのみや理[2]磯光雄[3]が、線や動画枚数の密度ではなく、質感や重量感を伝える真の意味でのリアルな「動き」を志向していった。うつのみや理による時間感覚を重視した作画は、アニメの「リアル」の基準を一変させたとまで言われている。また、磯が行った「フル3コマ」(5章参照)という作画方法は、その後登場する「動かしたがりアニメーター」が好んで用いる作画法として定着する。本論の中心となるWEB系がまさにそれだ。

 1990年代にはそれまでの様々な作画技術を受けてさらに実験的なアニメーターが台頭する。彼らの挑戦の結集として『THE八犬伝』(1990)、『THE 八犬伝 〜新章〜』(1993)が生まれ、大平晋也湯浅政明、橋本晋司、田辺修等のキャラクターデザインを無視した極端な「動き」のリアリズムが伝説的作画となり、また批判の対象ともなった。一方で『クレヨンしんちゃん』(1992)は湯浅政明による挑戦的な作画が一般の視聴者にも受け入れられることを示した。

 1990年代後半から2000年代にかけて、日本のアニメは作画より後のセクション、仕上げや撮影処理などをデジタル制作に移行した。同時に、CGの導入等によりCGで作られたオブジェクトや背景と、手描きで描かれたキャラクターが同居する画面に立ち向かうこととなる。この時期からTVアニメ、特に深夜帯アニメの本数は一気に増え、乱造とも言える状態でスケジュールを圧迫し、その平均的な質を低下させていく。新たな環境で試行錯誤が繰り返される、まさに玉石混淆の状況となった。ここで一躍スターとなったのが松本憲生[4]だ。松本は担当した回の原画を一人でほとんど描いてしまうような手の速さで高密度のアクションを描き、量と質の両方でTVアニメのクオリティを支えた。その「動き」は、うつのみや的なリアリズムを継承しながら、磯の「フル3コマ」も取り入れ、派手で見栄えのするアクションとなり、現在でも多くの若いアニメーターが模倣する対象となっている。

 同時に、ネットの発達により2ちゃんねる等のネット掲示板から、アニメ視聴者の声が見えるようになった。そしてまとめブログが現れ、その声を増幅し、一つの大きな声として発信していった。また、SNSの登場によってその傾向はさらに強まり、作り手と視聴者の距離は一層近づいた。その中で登場したのがWEB系であった。

 このように、90年代まで、日本の「動かないアニメ」は新たな才能の登場と実験を繰り返して「動き」においてガラパゴス的進化を遂げてきたのである。リミテッドな方法論があったからこそ、多様な「動き」を手に入れることが出来たとも言える。そして、時代毎の新しい「動き」は受け入れられてきた。と同時に、視聴者との食い違いは確実にあったはずである。それが顕著に見え始めたのが『THE 八犬伝』や、2000年代以降の「作画崩壊[5]という言葉だろう。時には「動き」を優先することが受け入れられてきたように見えたが、それ以上にキャラクターを映し出すものとしてのアニメが存在感を大きくしていたのである。WEB系を語る前に、現在のアニメ視聴者が求めているものを考えてみよう。

 

第3章:CG総作監制から

 現在のアニメ視聴者がアニメに要求しているものは何か。その結果を示す二つの事例を見ていこう。一つ目は総作画監督(以下:総作監)という存在だ。TVシリーズではここ10年の内に定着した比較的新しい役職だ。2014年現在のアニメ制作における作画作業の行程を踏まえつつ、総作監について説明しよう(尚、本稿はアニメ制作の入門書を目指す物ではないため、必要のない部分は省略する)。

 まず、脚本、絵コンテがあり、原画マンが絵コンテからさらに背景やカメラの画角、キャラクターの移動幅等も考慮しながら具体的にそのカットの設計図を描き起こす。これがレイアウトだ。このレイアウトを一度演出や作画監督(以下:作監)がチェックし、修正を加える。これを受けて原画マンが原画を描き、必要であればそこにも作監の修正が加えられる。作監の仕事は主にこの修正作業になる。特に作監に求められているのは、実力も様々な原画マン毎にバラつきの出る原画の水準を上げること、そしてキャラクターの絵柄に統一感を持たせるということだ。各話毎に作監がおり、その担当する回の統一感、クオリティを保つことが作監の仕事という訳だ。ここで登場するのが総作監である。各話の作画班、作監毎にバラつきの出るキャラクターに、シリーズ全体で統一感を持たせるため修正を行うのが総作監だ。そのため、キャラクターデザインをしたアニメーターが総作監となっている場合も多い。

 さて、近年のTVアニメのエンディングクレジットを見ていると、10年前と比べてある変化が起こっていることに気づく。それは原画マン作監の多さ、役職の煩雑さだ。特にシリーズの終盤になると原画マンは第一原画、第二原画合計で30名を超え(下請けが会社単位でクレジットされているため実際の数はさらに多い)、作監が10名近く、作監補佐あるいは作監協力という役職も加わる。『魔法科高校の劣等生』(2014)においては「総総作画監督」まで現れてしまった。作監の役割は、一人または少ない人数で行うことで絵柄の統一感を保持することも重要であった。しかし、それを10名近く動員し、さらに間に合わないカットは手の空いている原画マン作監補佐という形で修正作業に当たるのである。これでは絵柄の統一も何もない。それを最終的には総作監が修正することで現在のアニメはクオリティを保っている。また、総作監的立場のアニメーターを、特にキャラクターの修正に特化したキャラクター監修という役職に置く場合も見られる。

 このように、総作監は作画スタッフの中でも最も責任ある立場にあるため、特に優秀で信頼のおけるアニメーターが担当する場合が多い。つまり、優秀なアニメーター程、チェック作業や修正に追われることになるのだ。これが総作監制である。重点を置かれているのが、作品の画的なクオリティ維持、キャラクターの安定感であることはわかるだろう。また、あえて総作監を置かないことで、回毎のクリエイターの個性を優先した『スペース☆ダンディ』(2014)は逆説的にそのことの証左となっている。

 もう一つは3DCGモデルを使ったキャラクター表現の成功だ。これによって日本のアニメが一つの転換期を向かえているとさえ考えられる。キャラクター他、作品中の動く物体を全て、2Dアニメ風(セルルックとも呼ばれる)の処理を施した3DCGによって表現した『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』(2013)のヒット、『ラブライブ!』(2013)や『アイカツ!』(2012-)等に見られるCGモデルを使ったダンスシーンの人気は象徴的だ。これまで、CGの制作費が高額だったこともあり、日本制作の3DCGキャラクターアニメがヒットした例は少なく、また手描きのアニメに慣れた視聴者にとって、3DCGのキャラクターは少なからず違和感を与える物であった。しかし、2Dアニメ風の処理によって、ようやく日本のアニメにおいても3DCGキャラクターへの蕁麻疹をなくすことが出来たようだ。特に、その商業的成功によって「CGに萌えることが出来る」ということが示されたのは大きい。この「萌えることの出来るCG」の安定感こそが求められているのだ。画期的な映像表現、高度な「動き」など無くて良い、それなりに可愛くて、それなりに動いていれば良い。そんな声が実際に存在すると証明することも容易いが、アニメーター小松田大全のインタビューを読むと、少なくともアニメの作り手は既にその声を受け取っているとわかる。

 

小松田: 見たこともないような、ものすごい画面をゼロから生み出す可能性は、CGよりも作画の方があると思うんです。(中略)一方で、平均点の75点をコンスタントに要求されるような普通のTVシリーズの場合、75点の画面を安定して生産できるのは、やっぱりCGだなと思いますね。

「アニメーター小松田大全が語る『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』が革命したもの」『アニメスタイル005』より

 

 この二つからわかることはなにか。アニメ制作側が躍起になっていること、それはキャラクターの同一性、安定感を保つということだ。そしてこれを極端に言えば「作画崩壊」を防ぐということになるだろう。

 この「作画崩壊」という言葉が2000年代のアニメにはつきまとっていた。もちろん「作画崩壊」と言えるような状態はそれ以前の作品にも度々あった。しかし、ネットを使った交流によって、その状態に名前がつけられたことで、より明確に認識されるようになったのだ。急速にアニメ制作本数が増え、視聴者の目が肥える反面、質が不安定であったこともこの言葉が目立つようになった原因と言える。そしてこの言葉が時としてアニメーターの技や、工夫をも批判していくことになったのである。図1は『NARUTO』30話の松本憲生パートだ。

 
   


 引きのショットを使いながら、全身入った長尺の格闘を見せる、アニメ史に残る屈指のアクションシーンである。しかし、このシーンは図の1コマだけを抜き取って「作画崩壊」として紹介されてしまった。「動き」を見せるためのアクションシーンであれば、流れの中で必要な絵の崩しはあるはずだ。実際このカットは、首をぐるりと回して火を噴くアクションに、軽快な勢いをつけることに成功している。ところが、「動き」には目もくれず、絵の崩れ、普段のキャラクターと似ていない部分を目敏く見つける視聴態度は確かに存在した。この現象は『魔法少女リリカルなのはA's』(2005)7話、『創世のアクエリオン』(2005)19話、『SAMURAI7』(2006)7話、『天元突破グレンラガン』(2007)4話等でも見られた。こういった事例が積み重なるうちに、いつの間にかアニメを見る側だけでなく、作る側の意識も変えていったのかもしれない。2000年代に見られたクオリティの不安定さを克服しようとする動き、これがアニメの現状だ。

 当然、近年のアニメ視聴者の態度に全ての原因があるとは考えられない。むしろ絵柄や、キャラクターの同一性を確保しようとする努力は、「動き」の獲得と並行して進んできた。2章で述べた『アルプスの少女ハイジ』の成功がまさにそれだ。長い歴史を通して、多くの視聴者はキャラクターが均質に保たれていることを常に望んできたし、アニメを作る者もそれを一つの課題としてきた。そして、この章で述べた二つのことから、その傾向はさらに強まっていると考えられる。そんな中、30話の松本憲生パートに憧れアニメーターを志した者も存在した。それがWEB系と呼ばれるアニメーターの一人、山下清[6]だ。

 

第4章:WEB系って誰だよ

 前置きが長くなったが、WEB系とは何者かということを説明しよう。名前の通り、インターネット上で注目を集めてから、商業作品デビューした経歴を持つアニメーターを指すことが多い。最初のWEB系アニメーターとされる沓名健一を例にとってみよう。沓名はHP上に自身が描いたアニメーションをgifで公開していたところ、業界人の目に止まりスカウトされ『鋼の錬金術士』(2003)で原画デビューした。このように、アマチュアとしてHP上に自主制作のアニメを公開し、それが注目され、商業作品のアニメーターとして抜擢されたのがWEB系だ(ある意味で、庵野秀明の経歴はかなりWEB系と近しい)。沓名に続いてりょーちも[7]や、山下清悟等が、2000年代にデビューした。

 WEB系の多くは、ヘッドハンティングされてデビューするため、動画マンとしての下積み経験を持たず、いきなり原画を描くことになる。また、従来の作画用紙を使った作画ではなく、PC上でのデジタル作画を中心に作業する。よって、デジタルでの自主制作の経験を生かして、撮影処理や、彩色に精通している場合も多い。また、デジタル作画で最も影響のある特徴は、描いた動きをPC上で再生し、その場でチェックし、手直しながら作画できるということである。これによってもたらされる現象を語っているりょーちものインタビューを抜粋する。

 

りょーちも:新人が紙の作画から始めると、動きについて考える前に、画の問題にぶつかってしまうんですね。今の通常の商業アニメの教育方針だと、新人は動画から学んでいくから、まずは綺麗に線が描けないといけない。そして、次に原画に進むと、原画らしいポージングとか、画の巧さが問われる。そこまで全てこなして、ようやく動きに意識が向くんです。これはこれで問題で、つまり、動きが描けなくても、画が上手いというだけでアニメーターとして成立してしまうんですよ。一方で、デジタルだとクイックアクションレコーダーを常に持って描くことになるので、その手順の逆ができる。つまり、動きから学ぶことができるんです。ラフな画のまま動かして、いい感じの動きができたから、それを整えていく。現状とは逆の手順で進められるので、動きを優先して勉強できるというメリットがあります。「りょーちもが挑む デジタル作画とその可能性」『アニメスタイル005』より

 

 以上のことからWEB系の特徴を述べると、「下積みを経験することで得られる画を整える能力の向上が少なく、作画以外のセクションを生かす、あるいは自分でこなすことが出来、動き先行の作画をする」ということだ。付け加えるなら、WEB系は「動かしたがりアニメーター」が多く、時には他から浮いてしまうような主張の激しい作画をすることも特徴である。なぜ浮いてしまうのか。それは普段アニメ視聴者が見ているアニメとは違った方法で作画されているからである。WEB系と従来の作画がどのように違うのか、さらに詳しく見ていこう。

 

第5章:WEB系のデジタル作画

 WEB系はロトスコープ[8]や、「フル3コマ」作画等を好んで用いる(WEB系の作画全てで用いられている訳ではないことを注意しておきたい)。「フル3コマ」とは、正式な専門用語ではなく、磯光雄が自分の作画法を指して使った造語である。その意味は、3コマ送り(秒間24コマ中8コマの作画)でフルアニメーション[9](以下:フルアニメ)することである。とこれだけではまだわからないので、その意味を読み取ることの出来るインタビューを引用する。

 

小黒:ここで、フル3コマという事をもう少し、このインタビューを読んでいる人達にも分かり易くしたいんですけれど、3コマの動きを、中割りなしで、全部原画で描くという事ですよね。そうやると、中割りのある2コマよりも、1秒当たりの原画の枚数は多くなる。

井上:そうだね。動きの密度という点で言うと、多分、最高のものだろうね。2コマで中割りなし、というのは、ちょっと動きをコントロールしにくいし、それで描ける動きは、フル3コマとそんなに差がない。1コマフルという事も原理的には考えられるけれども、それは実際には、自分で自分の原画の中を割るだけの作業になってしまうだろうから、意味がないし、そもそもそんなにたくさん描けないし、スケジュールもない。だから、3コマおきに、全部画をコントロールすれば、ほぼ、描きたい動きの全てが描けるだろうね。「アニメの作画を語ろう:animator interview井上俊之」より

 

 つまり、24コマ中8コマ全て原画で動かすのが「フル3コマ」だ。日本の商業作品では動きの要所となる絵(ポーズ)を飛び飛びで原画マンが描き、動画マンがその間を埋める「ポーズ・トゥー・ポーズ」という手法がとられてきた。金田伊功の大胆なポーズを挟んだ作画はまさにその極致だろう。これに対して「フル3コマ」はパラパラマンガのように、動きを順番に描く「ストレート・アヘッド」で作画していく。これが何故画期的なのか、アニメーターではない我々にとってはイメージし辛いところがあるが、図2の簡易的なタイムシートを参考にしよう。

 


中割り[10]の役割は、「動き」を滑らかにするために軌道を埋めることなので、何枚中割りがあったところで次の新しいポーズや動きの基点を描くことはないというところがポイントだ。りんごが宙から地面へ一直線に落ちるというアニメの場合、原画で最初と最後の画を描いて、間の軌道を動画が割れば良い。しかし、りんごが何かの影響で揺れる、回転する等の動きが必要な場合、新しい動きの基点として原画が必要になってくるわけだ。図の場合の「3コマ中割りあり作画」には12コマ(0.5秒)中2回の動きの基点が存在し、「2コマ中割りあり作画」には12コマ中3回の動きの基点が存在することになる。ただし、1枚の原画に対して中割り1枚で描かれる状況はむしろ稀で、動画を3枚、4枚と入れることの方が多いため、通常の作画では基点の密度は図2よりさらに薄くなる。対して、「フル3コマ」は12コマ中4回の動きへの基点が存在し得るのだ。これによって2コマ作画よりも密度の高い動きを生み出すことが出来る。活気ある若いアニメーターにとってこの手法は非常に魅力的だ。なぜなら動画マンに任せず、動きの全てを自分でイメージ通りに制御するからだ。また、デジタル作画は「フル3コマ」と親和性が高い。自分で動きの全てを描き、PC上で納得のいくまで描き直し、一枚絵としての破綻があったとしても、「動き」として効果が出ていることがわかっていれば、それを恐れずに作画することが出来るからだ。このような姿勢・態度によって、より「動き」に純化した存在としてのWEB系の姿がようやく浮き彫りになってきた。ここで、一つの疑問が湧いてくる。それだけ「動き」にこだわりを持ちながら、なぜ「3コマ」なのかと。そこには日本のアニメが3コマで作ってきた「動き」に対する経験と思想が含まれている。

 

第6章:3コマ作画と仮現運動

 日本のTVアニメは3コマを中心に作画してきた。当然、動画枚数を減らし、制作費を削減する目的もある。しかし、経済的な自由度も増し、多くの優秀なアニメーターが揃っている現在、尚も3コマが主流となっているのは、3コマ作画でしか得られない動きの効果に期待しているからだ。

 さて、人間が画像の明滅である映像を「動き」として知覚する場合、仮現運動という言葉を根拠として語られてきた。しかし、実は1コマのアニメや、実写のフィルムは仮現運動を持ち出す必要もない。人間は1秒間に50回から60回程の早さの明滅は知覚しないことがわかっている。1秒間24コマの映像は、同じコマを2度映すことで1秒間48回の頻度で明滅するようになっており、事実上その明滅は認識されていない。つまり、人間にとっては実際に動いている物と同じ原理で見えているということだ(吹抜 2013)。しかし、3コマの、毎秒8枚の「動き」ではそうはいかない。ここで登場するのが仮現運動だ。仮現運動とは、静止した画像を次々と見せることでそれが「動き」であると錯覚する現象のことだ。3コマのアニメーションが動いて見えるのはそれに依拠している。また、3コマを認知する仮現運動はLRAM(long-range apparent motion)によって説明される。LRAMとは動きの幅が大きい運動の認知であり(吉村 2013)、近年の研究では、それは脳の中でも記憶を司る箇所で処理されると考えられている。つまり3コマ作画は一見「動き」としては認知されていないが、観る人が記憶を呼び起こして「仮に現れる」イメージを補完することで「動き」として認識されるのだ。1コマや2コマがより具体的にその「動き」を規定するのに対して、3コマは観た人の記憶と感覚に一致することで、よりリアルな「動き」として完成するのである。日本のアニメーターはその理屈を知っていても、いなくても、それに信頼して描いてきた。同様にWEB系も、3コマにこだわる。以下に引用する山下清悟と平川哲夫の対談でその3コマへのこだわりが伺える。

 

山下:松本憲生さんはコマを落した状態でリアルに見えるように時間に執着する。これは磯光雄さんにも、うつのみやさとるさんにもできない、極北なんです。でも、ふつうの人にこの作画を見せたら、カクカクしてるとか、なめらかに動いてないとか言われるかもしれません。

平川:ふつうは3コマ作画だと遅く見えちゃうのに、ちゃんとスピード感があるのはすごいなぁ。

山下:いまは無音で見てますけど、これに音がつくと「こういうふうに動いてるんだろうな」と勝手に脳が補完して、リアルに見えるんですよ。

平川:動きの中にない、つばぜり合いの音とか、走りの接地音とかね。

山下:3コマ作画が音によって、頭の中で1コマで再生されたときに、アニメがいちばんリアルに近づくと僕は思うんです。

「作画の時間、演出の時間、絶望の時間 山下清悟・平川哲生の対談」より(以下、山下清悟の引用は全てこの対談から)

 

 山下は3コマ作画によるリアルは音に依拠すると理解しているが、観る人の脳内で補完されることで完成するということに期待している点は同じである。そして松本憲生以降の「フル3コマ」において、さらに「観る人の脳内で補完される」3コマを重視した作画が押し進められた。それがタイムライン系作画だ。

 

第7章:時間を作画する

 タイムライン系作画とは、WEB系の主に山下清悟を中心に使われている造語である。その意味を山下は「実写映像の時間軸をコマ落しで見たときに、そこにされているであろうポーズを3コマごとに原画にする、という描き方。」と語る。つまり、頭の中でイメージされた映像をコマ落としして再現するというのだ。これは松本憲生らがうつのみや理から継承してきた感覚だ。

 

山下:うつのみやさとるさんは、かっこ悪いポーズであろうが、実際の人間がそこで動きをためるなら作画でもためる。キャラクターに執着するよりは、時間に執着する。

 

 従来の作画(タイムラインに対して演算系と呼ばれる)は、その動きがどういった軌道を辿るか、要所のポーズが印象に残るように説明して見せている。必要であれば1、2コマ打ちすることもある。対して、タイムライン系は3コマベタ打ちを徹底し、前章で記した軌道の基点となるポイント(ポーズ)、例えば誰かがジャンプして着地した瞬間であっても飛ばしてしまう。原画とその次の原画で動きが繋がっていないこともある。それは時に、動きがカクついて見え、画面上で何が起こっているのかわからないという状況まで生みかねない。しかし、その時、最早キャラクターの行為は重要でない。代わりに、「動き」の流れている時間こそが主役となるのである。

 

山下:松本憲生さん、うつのみやさとるさんの作画は「なにを見せたいか」という意味で演出なんですよ。キャラクターではなく、時間を見せる演出。

 

 アニメはキャラクターが「何をしようとして、どうなった」ということを説明するためにあるのではない。アニメはただ、そこに流れている「動き」を映し出すことで、時間に縛られることでついに、画や記号やキャラクターから解放される。本来の、「アニメーション=静止画の連続が時間によって動きに変えられたもの」という姿を取り戻す。うつのみや理や、磯光雄、そして松本憲生の挑戦してきたこと、それらを受け継ぐWEB系が「動き」こそ、アニメの主役であると示したのだ。

 

第8章:ソーシャル時代の作画と「ざわめき」

 フル3コマによるタイムライン系作画は、「動き」の流れる時間を主体とすることに成功した。ここまでは松本憲生が達成し、WEB系はそれに続いたに過ぎない。では、WEB系の新しさとは何か。それは大きく二つに分けて考えることが出来る。一つ目は4章で記した通り、デジタル作画の特性だ。デジタル作画と従来の作画を比較した時、最大の違いは「動き」の理屈より「感じ」が優先されるということだ。静止画としてどんなに崩れても、動いたときの「感じ」をその場で確かめながら、作画する。それによって、それまで多くのアニメーターが経験や画の巧さで作ってきたパターンから離れて、新たな「動き」が生まれる。二つ目はWEB系の出自とも関係のある、ソーシャル時代の表現をめぐる思想だ。

 2000年代以降、2ちゃんねるや、ブログ、twitter等のソーシャルメディアがアニメに与えた影響は計り知れない。それはアニメの視聴のされ方、内容やキャラクターのあり方、そして作画のあり方にも影響を与えていると言える。先述してきた通り、「作画崩壊」という言葉の圧力によって、アニメがキャラクターの表層を守るために存在するものに変えられようとしているし、WEB系はソーシャルメディアを通じたコミュニケーションから見出されたからだ。

 2000年代初頭、ブログやHPを中心とした、作画語りが行われ始めた。沓名健一のブログ「沓名設備[11]」も2001年からだ。そこには作画オタク的アニメ感想日記と、自身の描いたgifアニメが貼られており、それが注目され、掲示板には業界人のコメントが集まりスカウトに至る。これ以降、アニメーター志望者が自身のHPにgifアニメを貼るというスタイルは定着し、また多くの自主制作作品がYouTubeで観られるようになった。その後登場する2ちゃんねるの「作画を語るスレ」の常連がアニメーターになった例も存在する。小嶋慶祐等がそうだ。山下清悟は今でも原画の線を一本引くたびに「作画を語るスレ」を更新しているという。作画オタクのコミュニティから生まれるアニメーターは最近でも居る。例えば、『坂道のアポロン』(2012)や『スペース☆ダンディ』で一躍脚光を浴びたBahi JDはYouTubeの所謂作画MAD[12]に感化された作画オタクの一人で、彼がまだアマチュアだった頃のコメントは今でも残っている。つまり、WEB系は「作画崩壊」とは別の文脈の「作画を語る」界隈の中から出てきたのだ。それはアニメーターが作画オタクという仲間でもあり、批評されるべき存在でもあるという状況を生み出す。作るものとそれを享受するもの、それがソーシャルメディアのコミュニケーションを通じて、距離を近づけ、あるいは存在を重ねる時、アニメーターもまた、境界線の曖昧な存在となる。それを以て、作画することに対する批評的、自己反省的態度が作画に表れることは不思議ではない。上記二つが合わさった時、表れるものが「ざわめき」だ。

 松本の作画はキャラクターを少なめの線でシンプルにまとめて動かす。その線の取捨選択が非常に巧みで、キャラクターが要所で綺麗な形を保ったまま動く。もちろん、残像や空間の強調等のためにあえて画を崩すことはあるが、あくまでも理屈のわかる崩し方だ。対して、WEB系は明らかにあえてキャラクターをデザインされた通りに描くことを捨てる。それが図3や、図4のようなカットだ。

 『鉄腕バーディー DECODE:02』(2009)7話は本稿で紹介したWEB系全員に加えて松本憲生も参加している。この回はヒロインの記憶を描いており、非常に簡略化されたキャラクターと背景が目まぐるしく動き続ける。この簡略化されたキャラクターや、感情を爆発させ崩れた表情に例のごとく「作画崩壊」という声が集まった。極端な簡略は、記憶というディティールの定まらないものを描いてみせる演出であるのは明確だ。そうでなくとも、人間は外部からの物理的影響や、感情によっていくらでも醜くなり得るはずだ。しかし、キャラクターを見ている視聴者はそれを拒絶する。なぜあえて、時には視聴者に拒絶されかねない、商業性とぶつかるような表現に走るのか、りょーちもは自身の制作態度をこのように語る。

自分の作品は「ここにいる」という実感をつくりたいんです。そのためにも自分の目から見えたものを描きたい、商品としての方向性を強調し過剰に表現し過ぎる事で「消えてしまう弱い表現」にやさしさ、あたたかさを感じます。時間を感じる表現や画面外の存在感は大事だと思います。キャラが画面に写っていない時も何をしているかとか。人物を中心に描くだけでなく、周りからの影響としての自然現象や外部からの力に巻き込まれる不快感や、快感も描きたいと思っています。「ちものとアニメーション TIMO NOTE ANIMATION[13]」より

 

だからWEB系はキャラクターをそのまま描こうとせず、感情や感覚そのものを表す主体にメタモルフォーゼさせるのだ。図4の『NARUTO -ナルト- 疾風伝』(2007-)167(387)話はまさにそれだ。これもりょーちも以外の全員が参加している回だが、特にこのカットは動きの流れとしてもかなり異様で、常に身体中がグラグラと揺らめいて見える。この顔に至っては一見人型のものとは思えないほどメタモルフォーゼしている。

このようにWEB系の作画を目にした時、普段のアニメにはない現象を感知することがある。キャラクターの身体を囲っている線が撓み、グラついているように見えるという感覚だ。これこそが、線の中に閉じ込められたキャラクターとしての身体が「動き」そのものに変わることで起こる「ざわめき」だ。そして、それは画面の中に存在する生命としての「ざわめき」なのだ。静止画で観ても何者かわからないほど崩されたそのフォルムが、動き出した時、キャラクターとは違う別の何か、グラグラと揺らめく感情の「動き」そのものとして立ち上がってくる。

 

山下:商業アニメはまず絵がちゃんとあって、そのイメージを持続したまま、あとはテキトーに動かしてくれればいい、というものじゃないですか。僕や沓名さんは、絵はぜんぜん人間に見えないのに、動いたときにこの上なく人間に見えるというのが楽しいと思ってしまうんです。

 

 山下は「動き」によって絵が生命に変えられることに期待している。それはアニメーションの原初の喜びに他ならない。最後に「生命の躍動」について語るベルクソンを引用して閉じたいと思う。

まずはじめに私が確認するのは、私は状態から状態へ移りゆくということである。(中略)感覚、感情、意欲、表象、そういうさまざまな様態が私の存在を分有し、これをつぎつぎと色付ける。したがって、私はたえず変化する。(中略)感情といい、表象といい、意欲といい、一瞬ごとに変化しないものはない。アンリ・ベルクソン『創造的進化』松浪信三郎、高橋允昭訳、白水社、1907年より

 

 この地上にある生命は常に変化であり続ける。「ざわめき」は「動き」であり、「時間」であり、「変化」である。しかし、キャラクターは画面上にただ留まっている。状態の変化を恐れる、綺麗な姿でいることを望む者の手によって。WEB系の作画は、線に閉じ込められたキャラクターのままで居させられることへの反目、キャラクターとしか観ていない視聴者への反目として、情動を表す主体として、「動き」そのものという生命に変えられる。その「ざわめき」を単なるノイズとして拒絶してしまう時、最早アニメという体験は要らないのである。アニメがアニメーションである限り、「ざわめき」を受け取れない者のためにアニメは存在しない。

 

参考文献・URL

[1]増田弘道『もっとわかるアニメビジネス』、NTT出版、2011年

[2]リチャード・ウィリアムズ『アニメーターズ・サバイバルキット』、グラフィック社、2004年

[3]小黒祐一郎編『アニメスタイル005』、2014年

[4]志賀隆生「生命の躍動-ベルグソン『創造的進化』をめぐって」小坂修平編『思考のレクチュール2. 生命のざわめき』、作品社、1986年

[5]渡邊大輔『イメージの進行形 ソーシャル時代の映画と映像文化』、人文書院、2012年

[6]大塚康夫、『作画汗まみれ 改訂最新版』、文藝春秋、2013年

[7]吉村浩一『運動現象のタキソノミー』、ナカニシヤ出版、2006年

[8]吉村浩一「実運動の動画表現」、法政大学心理研究部会主催パネルディスカッション資料、2013年

[9]吹抜敬彦「TVや映画における動画像の見え方〜視知覚信号処理工学の礎〜」、法政大学心理研究部会主催パネルディスカッション資料、2013年

[10]心理研究部会主催パネルディスカッション「アニメーションと仮現運動~この似て非なるもの?~」、2013年

http://www.i.hosei.ac.jp/~yosimura/record20130825.htm)、最終閲覧日2014年10月17日

[11]「作画の時間、演出の時間、絶望の時間:山下清悟・平川哲生の対談」2010年

http://bokuen.net/interviews/yahi.html、)最終閲覧日2014年10月17日ア

[12] 片渕須直「β運動の岸辺で:第27回 死語である“フルアニメーション”」、2010年

http://style.fm/as/05_column/katabuchi/katabuchi_027.shtml)、最終閲覧日2014年10月17日

[13]WEBアニメスタイル「もっとアニメを観よう:第1回 井上・今石・小黒座談会」2002年

http://style.fm/as/04_watch/watch01_1.shtml)、最終閲覧日2014年10月1

 

[1]原画の前に、その設計図となるレイアウトを描き、それを元にアニメを作る体制のこと。高畑勲宮崎駿らによる『アルプスの少女ハイジ』(1974)で初めて本格的に導入されたとされる。ちなみに、宮崎駿は『アルプスの少女ハイジ』で全話全カットのレイアウトを描いている。

[2] 1959年生のアニメーター。『御先祖様万々歳!』で行った様々な革新的作画は、アニメーターの間でセンセーションを巻き起こしたとされる。

[3] 1966年生のアニメーター。『MOBILE SUIT GUNDAM 0080 ポケットの中の戦争』1話で脚光を浴びる。『新世紀エヴァンゲリオン』13話脚本等、幅広く活躍。『電脳コイル』で初監督。

[4] 1980年代後半から活躍するアニメーター。『逮捕しちゃうぞ』39話で、多くの原画を一人で描き、そのクオリティの高さから注目された。『NARUTO』30話、133話で見せたアクションが特に有名。

[5]作画のクオリティが著しく低い状態を指す言葉。『夜明け前より瑠璃色な〜Crescent Love〜』が有名。

[6] 1987年生。WEB系アニメーターの一人。2007年に商業作品デビュー。『NARUTO 疾風伝』、『鉄腕バーディー DECODE:02』等で活躍。

[7] 1979年生。WEB系アニメーターの一人。『BECK』監督の小林治からスカウトされ、同作品でデビュー。『鉄腕バーディー DECODE』シリーズ等で活躍。『夜桜四重奏』シリーズの監督を務める。アニメ制作にデジタル作画環境を整えるため尽力している。

[8] モデルの動きをカメラで撮影し、それをトレースしてアニメーションにする手法。日本では『悪の華』が、TVシリーズで初めて全編この手法を取り入れたことで注目された。

[9]厳密な定義を持たず、この言葉を使う者によってかなり違った意味で語られている。例えば「24コマ中24コマ全て作画していること」をフルアニメと呼ぶ場合は多い。この例で多いのが「ディズニーは24コマ中24コマのフルアニメを作っている」といった誤解だ。1930年代以降のディズニーは2コマ、即ち24コマ中12コマの作画をするフルアニメを基調としており、必要な時に1コマ、さらに4コマや5コマの作画も行ってきたのである。この場合近いのは「対象物の動いている部分だけ作画するのがリミテッド、逆に対象物の全てを1から描き起こすのがフルアニメ」という分け方だ。しかし、ここで、注意すべきはディズニーがフルアニメを基調にしていると言っても、動作の主体でない部位が止まっていることはあるし、リミテッド中心の作品にあっても、カットによってはフルアニメ的になる。その上、「フル3コマ」で使われている意味もまた少し違うのが厄介だ。つまり、この言葉自体を定義づけて線引きすることには何の意味もない。

[10]動画で原画の間を埋めること。

[11] http://coosun.fc2web.com/

[12]作画が優れたシーンや、特定のアニメーターの担当パートを集めて音楽に合わせた動画。

[13] http://timo-note.com/logic.html

 

 

いかがだったでしょうか? それでは皆様楽しい夏休みをお過ごしください。

7月の総括

7月だー!前期セメスターの活動も終了です。 こちとらテストでてんやわんやでございます。それでは振り返って行きましょう。

 

7/1 新入会員研究発表

 新入会員による研究発表です。(もう何回目か忘れました)

 5限は当時『桜TRICK』の一気見をしていたNMくんによる「近年における百合と今後」でした。

主に80年代からの「百合」の歴史、流行の考察などをやってくれました。「百合」という言葉はゲイ雑誌「薔薇族」との対義語で生まれたそうです。ちなみに百合の花言葉は「純粋」「無垢」「威厳」だそうですよ。「豊かな教養」「高貴」「清純」?それは桜。教えてシノちゃん。

 

 6限は当会(多分)初の沖縄出身者SHさんによる「『ワールドトリガー』の三雲修はバトル漫画の主人公としての役割を果たしているのか?」でした。

三雲は過去のバトル漫画にありがちな孫悟空ケンシロウのような圧倒的な力を持っているキャラクターではないが近年、『僕のヒーローアカデミア』などにもあるように平凡な努力し強くなる主人公像が受け入れられるようになっているのでその役割を果たしているというものでした。舞台である三門市と同じ人口28万の都市には新潟の長岡市、山口の下関市、三重の津市などがあるようです。私の育ったF市はもっと少なかったじゃねーかこのやろう

 

 さらにもうひとつ、当会で唯一私と歌の趣味が合うISくんの「絵コンテから『コンテ主義』まで」もありました。

コンテの歴史から冨野由悠季、出崎統など監督別の絵コンテに対する信念などを考察してくれました。「コンテ」は英語の「連続」という意味の「continuity」の略なのですが、画材のコンテが由来だと思っていたのは私だけではないと信じたい。

 

7/4 新入会員研究発表

  最後の新入会員研究発表です。今回は中国からの留学生KTくんによる「ゲームはd個まで進化するか -VRに関する考察ー」でした。VR元年と呼ばれている2016年ですが、そのVRの普及を妨げる問題点について考察と今後について発表してくれました。最近、コジマ店員さんがあげているVRの動画が楽しい。

 

7/8-7/9 衣セミ合宿

大学の西園寺記念館で1泊の合宿を行いました。参加者19人で互いに進行を深め合いました。ゲームやったりアニメを上映したり楽しかったです(小並感)。

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アナログゲーム好きの新入会員SHくん持参の「ごきぶりポーカー」プレイ中です。最近ごきぶりに遭いまくっている会計には案の定ごきぶりが集まりました。

 

7/11 「SUGOI JAPAN」選定

読売新聞社が主催する「SUGOI JAPAN Award2017」(言うなれば「日本の素晴らしいアニメ漫画ラノベなどを国民投票で選び海外に紹介しよう」という企画。

参考 SUGOI JAPAN Award2017 | 日本のスゴイ!を、世界のスゴイ!へ。

に推薦する作品選定を今年も行いました。有識者枠ですよ、有識者枠!

皆さんもお時間があったら上記ページの投稿フォームから推薦してみてはいかがですか? (7/31まで)

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紛糾する議論。

 

こんな感じですかね。夏休み中は常活はお休みですがまだまだ頑張りまーす!

復刻版6月号

ZINLOSS復刻版

3回目の「ZINLOSS復刻版」のコーナーです。今回は2012年秋号vol.12よりがはく氏の「日米ヒーロー像比較論」です。ではスクロールしてどうぞ。

 

 

日米ヒーロー像比較論

アメリカン・ヒーロー日本でもヒーローになれるのか~

    

がはく

 

はじめに

あらゆる国において、正義を遂行し人々や世界を救う存在としてヒーローが存在し、そのヒーローを中心に据えた物語作品が数多く存在する。日本でも数多くのヒーロー物作品が存在する。ウルトラマン仮面ライダー、戦隊物のヒーロー達はもちろん、『ドラゴン・ボール』『NARUTO-ナルト-』、最近では『TIGER&BUNNY』など数多くの作品が挙げられる。また、近年ではマッドハウスにより、『アイアンマン』、『X-MEN』、『ブレイド』などアメリカン・コミックスの代表的な出版社であるマーベル・コミックのヒーロー作品を映像化したものが放映された。しかし、一言にヒーローと言っても各国や地域において、そのヒーローの在り方には異なる点が見られる。今回は日本とアメリカにおけるヒーロー像を比較し、そこからアメリカン・ヒーローは日本において受け入れられるのかについて論じていく。

 

アメリカ的なヒーローとは

 まずはアメリカ的なヒーロー像について論じていく。亀井俊介氏の『アメリカン・ヒーローの系譜』によると、アメリカのヒーローの特徴はピルグリム・ファーザーズと「アメリカのアダム」をキーワードとしているとされる。「アメリカのアダム」とはアメリカというヨーロッパ文明の影響を受けていない未開の地で清教徒の信仰の自由を実現しようとしたピルグリム・ファーザーズのことを言う。

彼らは未開の原始的な自然を有していたアメリカ大陸を「荒野(Wilderness)」呼んだ。この「荒野」とは聖書の中の「出エジプト記」において、モーセによる導きによりイスラエル人がエジプトからの支配を逃れ、約束の地「カナン」に脱出する際にイスラエル人たちが歩んだ砂漠のことを言う。

ピルグリム・ファーザーズは自分たちが旧世界であるヨーロッパ大陸から新世界であるアメリカ大陸に脱出する様をこの「出エジプト記」になぞらえ、未開の地であるアメリカ大陸を「荒野」と呼び、その「荒野」という試練を乗り越えることで、約束の地である「カナン」、つまり自分たちの理想郷にたどりつくという意志を持ったのである。この時、彼らはこの人間の手が入っていないアメリカ大陸を「新しいエデン」と呼び、自分たちをその土地にすむ無垢で純粋な存在であり、たくましい開拓者として自身たちを「アメリカのアダム」と称するようになった。

そして、彼らはこのアメリカという荒野に立ち向かう自然人を人間の理想像とし、誇りとすると同時に英雄とした。これが現在まで続くアメリカのヒーロー像の本質であるとされている。

また、このように荒野に立ち向かうたくましい人間を理想のヒーロー像としていることから、アメリカにおけるヒーローは強靭で大きな肉体をもつものとされることが一般的である。これは単にフロンティア時代において、開拓者に強靭な肉体が必要とされていたためだけでなく、高度な知性を象徴するヨーロッパ文明に反抗するために反知性的で野性的な肉体を対抗する存在として無条件の信頼を得るようになったのである。そのため、アメリカで英雄的な存在として扱われる人物は実際よりも大きく強靭な肉体を持った人物として描かれることが多い。この特徴はアメリカの西部劇からも見てとれる。カウボーイは馬に乗って何キロもの距離を移動するため、カウボーイが大柄な人間である場合、馬がすぐに疲弊してしまう。そのため、本来カウボーイは体重の軽い小柄な人物である必要があった。しかし、西部劇でのジョン・ウェインクリント・イーストウッドといった俳優たちはみな大柄な人物である。ここからも、アメリカにおいて、ヒーローとは大きく強い肉体を持った存在であるべきという考えが一般的であるということが分かる。

さらに、アメリカではヒーローは成功者でなければならないとされる。フロンティア時代では失敗はそのまま破滅を意味していた。この思想は現在でも根付いており、あらゆるジャンルにおいて成功者は国民的英雄、すなわちヒーローとして扱われる場合が多い。アメリカン・コミックのヒーローにも社会的成功者であるキャラクターは多く、『アイアンマン』のトニー・スタークは大企業スターク・インダストリーズの社長であるし、『バットマン』のブルース・ウェインは大企業ウェイン・エンタープライズ筆頭株主であり、大富豪である。例外的に、ジョン・F・ケネディのように、その死によって英雄的な面が強く表れる場合もあるが、それはあくまで例外である。また、ヒーローには進取の精神が期待され、常に積極的な行動をすることが要求される。これは、何らかの成功をおさめるためには、停滞することは許されず常に前進しなければならないというフロンティア精神的な考え方に基づいたものと言える。

そして、アメリカのヒーローはアダムでありながら、アメリカの未開拓の地という荒野を開拓し人間社会に繁栄をもたらすという使命が存在する。このため、ヒーローには道徳性が求められ、不自然な形式主義を打ち破る力やある種の奔放さは許されるものの、社会的なモラルは厳格に守らなければならないとされている。ここには清教徒の伝統に基づく道徳観念が現れている。

加えて、アメリカにおいて、ヒーローは独力で事をなすことが重要視されている。単独での大西洋無着陸横断飛行を成し遂げたリンドバーグはその典型例と言える。また、アメリカン・コミックスにおいてもその思想は強く現れており、ヒーロー達は基本的に単独で事の解決にあたっている。

 

日本的なヒーローとは

 次に日本的なヒーローの特徴を挙げていく。日本におけるヒーロー像はアメリカとほぼ真逆と言ってもよい。まず、体格であるが、日本のヒーローは小柄な人物、または少年子どもの場合が多い。おとぎ話に登場する一寸法師や金太郎、桃太郎などはいずれも子どもであるし、牛若丸と呼ばれた源義経もまた線の細い美少年というイメージで広く日本に浸透している。アニメや漫画においても、うずまきナルトモンキー・D・ルフィといいた主人公たちはいずれも少年と呼ばれるような若者ばかりであり、筋骨隆々としたキャラクターが主人公となっている作品もあるとはいえ、全体で見れば少ないと言えよう。これは日本の諺で「大男総身に知恵がまわりかね」と言われるように、日本においては大きな体格の人間は愚鈍なイメージが連想されやすいことが原因と言える。

また、内田樹氏の「街場のアメリカ論」では日本のヒーローの象徴として「無垢な子供しか操縦出来ない巨大ロボット」を挙げている。『鉄人28号』では金田正太郎少年が『魔神ガロン』ではピックという少年が操作操縦することによって初めて機能するし、『マジンガーZ』、『機動戦士ガンダム』、『新世紀エヴァンゲリオン』の主人公はいずれも少年である。内田氏はこれを戦後日本における「自衛隊」と「憲法9条」というねじれ、つまり戦前の軍国主義的なものと戦後の戦後の民主主義、平和主義的なものの間に存在するねじれと、アメリカと日本のねじれという問題を物語的に解決するものであると説明している。戦後において大人たちが同じ失敗を繰り返さないことを子どもたちの無垢な心に期待し、巨大ロボットに大人という存在を投影し、自分たちを正しく導いてくれる存在として子供に期待しているのだとしている。そして、内田氏はこの物語群を日米関係にもあてはめ、アメリカという巨大な軍事力を日本が操っているという考え方を示しているとしている。

もっとも、過去から日本においては少年や華奢な人物がヒーローとして描かれていたことを考えると、戦後の日本漫画、アニメでよく見られる少年と巨大ロボットという組み合わせは日本人の昔からの美意識が根底にあるように考えられる。小さな存在である少年が自分よりもはるかに大きな存在である巨大ロボットを操る姿は、源義経が大男である武蔵坊弁慶を打ち負かし従えたこと、桃太郎や一寸法師が巨大な鬼を倒して財宝を得た話などに見られるように自分より大きな存在を打ち負かし支配服従させる、あるいは退治するという姿に重なるものがあると言える。このように、日本では小柄な者や少年子どもがヒーローとして扱われる場合が強い。

次に日米のヒーロー像の違いとして挙げられるのが、ヒーローが成功を収めるか否かである。日本では最終的に成功を収めた人物はヒーローになりにくいと言える。アイヴァン・モリス(Ivan Morris)による『失敗の高貴さ―日本史の悲劇的な英雄たち(The Nobility of Failure: Tragic Heroes in the History of Japan)』で、彼は西洋の「目的成就のエートス」と対立する「複雑な日本的伝統」を指摘している。彼は「圧倒的に旧套墨守の傾きがあり、権威と先例に人々が威圧されている社会にあって、義経や隆盛のような性急で反抗的で感情の正直な人は、特別の魅力を持つ。・・・彼らのあらゆる奮闘が失敗に終わったことは、彼らの生涯に一抹の哀愁をさそう力を与え、人間の努力の空しさをはっきりさせると同時に、彼らを最も愛され慕われるヒーローにする。」とも述べている。モリス氏が示唆するように、日本人のヒーロー観には「敗北の美学」とでも呼ぶべきものが存在すると言える。源義経西郷隆盛のほかにも、武田信玄坂本龍馬といった日本で英雄として扱われている人物の多くはその志半ばで倒れている。『あしたのジョー』の矢吹ジョーが最終話で敗れたのも日本人のこのヒーロー観から来るものと言える。

そして、アメリカのヒーローと異なり、日本のヒーローには集団でヒーローと認知されるものが多い。赤穂浪士真田十勇士、またアニメ漫画では『サイボーグ009』『秘密戦隊ゴレンジャー』『美少女戦士セーラームーン』『プリキュアシリーズ』などが挙げられる。アメリカン・コミックスにも『ファンタスティック・フォー』『X-MEN』などが挙げられるが日本のそれと比べるとはるかに数が少ない。これは日本の個より集団を優先する集団主義に基づくものと考えられる。

 

アメリカン・ヒーローは日本に受け入れられるのか

 以上のように比較してきたが、アメリカン・ヒーローと日本のヒーローはほぼ真逆の存在である。もちろん、日本にもキン肉マンケンシロウのような筋骨隆々なヒーローは存在するし、常にヒーローの敗北を美学として捉えているわけではなく、ヒーローが目的の成就に失敗すればそれを非難することも多い。

日本のヒーローとアメリカン・ヒーローの間にある最も大きな違いはヒーローが守護者であるか破壊者であるか、という点である。アメリカン・ヒーローピューリタンの伝統に則り、厳格なルールや社会的モラルの下で活動し、社会や文明の発展の貢献し、男女関係や家族関係なども含んだあらゆる道徳を遵守する正義の存在として描かれる。つまり、アメリカン・ヒーローは社会や国家を守護する者として扱われていると言える。これに対して日本のヒーローは社会や国家、組織の破壊者であることが多い。平将門織田信長高杉晋作といった英雄と呼ばれる人物たちは古い慣習を破壊し、新時代を築こうとしてきた人物ばかりである。そして、うずまきナルトケンシロウといったアニメ、漫画のヒーローたちも世界に風穴を開け、新たな時代を築いていこうとするキャラクターが多い。ここから考えられるのは、日本人はヒーローに対して変革を求めている傾向があるということである。ただ単に善政をしき、悪を罰するだけではなく、さらに変革をもたらすために活躍する人物に魅力を感じているのだと考えられる。そのため、社会的に悪とされる存在を滅ぼすことに重きを置き、変革よりも安定を与えるアメリカン・ヒーローは日本人には受け入れられにくいものだと考えるべきである。

 

参考文献

赤穂浪士はアメリカでヒーローになれるか:ヒーローの日米比較』山下興作 高知大学学術研究報告 第46巻(1997) 人文科学

アメリカン・ヒーローの系譜』亀井俊介 研究社出版 1994年第4版

『街場のアメリカ論』内田樹 文藝春秋 2010年初版

 

いかがだったでしょうか? 次回もお楽しみに。

6月後半の総括

活動報告

やってしまいました。更新が遅れたせいで6月後半の総括が2回分になってしまいました。(少なっ)しかもうち1回は・・・ いや、とにかくどうぞ!

 

6/24 新入会員研究発表 

なんとこの回はまさかの四本立て!!  多ない?多あるな

5限の1本目は女子会員KKさんによる「『おそ松さん』から見えてくる現代の若者像」でした。六つ子たちの様子は現代の若者の対人関係や恋愛を象徴していると発表してくれました。 おそ松さんは社会派アニメ(確信)そもそも全員ニートですしね。

 

5限の2本目はテンション高めのOYくんの「『咲-Saki-』の影響による麻雀の健全化について」でした。賭博を扱った漫画により不健全、賭け事と切っても切れない関係というイメージがついてしまった麻雀を『咲-Saki-』が打ち消したということを打ち出してくれました。この発表には『闘牌伝説アカギ』や『勝負師伝説・哲也』などが麻雀漫画の例として挙げられたのですが私としては『スーパーヅガン』なんですよね。(大好きな三波春夫が主題歌歌ってたからなんて口が裂けても言えない

 

続いて6限の1本目はこちらも女子会員IMさんによる「スタジオジブリ千と千尋の神隠し』の人気の理由は日米で共通なのか」でした。

ジブリ最大のヒット作であり、欧米にジブリの名を知らしめた『千と千尋の神隠し』のヒット理由は日本では作品の中で成長する千尋に自分を重ね合わせてみることで世界観に引き込まれ何度も見たくなること、アメリカではアジアの異文化に対する興味と異なっているのではないかということを提言してくれました。ちなみに私は千尋の父が冒頭で言う「任せとけ、この車は四駆だぞ。」というセリフが大好きです。

 

6限2本目は私と同じ高校出身のKKくんの「『仮面ライダードライブ』がなぜ仮面ライダーなのか」でした。昨年度放送されていた『仮面ライダードライブ』は、」バイクではなく自動車を運転する。定職についている。などの点から他の平成、昭和ライダーとは大きく異なると述べ、にもかかわらず私たちはどこから仮面ライダーであると認識するのかについて発表してくれました。ちなみに私が一番好きなライダーはV3です。

 

6/27 研究発表(予定) 発表者の都合により延期に

 

2回しかないうえにうち1回は何もしてないという絶望的な状況でしたが、来月は大丈夫(多分)。次回もお楽しみに。

入会や見学の希望はいつでもtwitterかメールで。

メール  2010mediart@gmail.com 

twitter https://twitter.com/rumas_n 

6月前半の総括

活動報告

暑いし雨降るし何か嫌な天気ですね。更新忘れてたわけじゃありませんよ。

6月の活動報告やっていきましょう!

 

6/3 新入会員研究発表準備+基礎講座日常アニメ編

はい。私が基礎講座やりました。日常アニメというジャンルの起源、歴史、分類から今後の展望までを語りました。そして自分はつくづく喋りに向いていないことを痛感しました。(それじゃダメじゃん春風亭昇太です

 

6/6 新入会員研究発表準備+基礎講座音楽ゲーム

音ゲー廃人の当会会計が音ゲーの歴史、各社の特徴、今の問題など多岐にわたって語ってくれました。一口に音ゲーっていってもいろいろあるんですねー。

 

6/10 新入会員研究発表準備+基礎講座アニメ製作編

出戻りの前会長がアニメ『SHIROBAKO』をテーマにアニメ制作の流れやアニメにかかわる職種について語ってくれました。去年も同じようなの聞いた 何度聞いてもためになりますね。

 

6/13 新入会員研究発表準備+全体会議

恒例の会議を行いました。ちょっと大きなことを決めました。

 

6/17 新入会員研究発表1回目

すでに2回生の貫禄がある1回生、KTくんが『「大戦」シリーズから見る艦これACの今後』をやってくれました。結構考証がしっかりしてて将来有望だなぁと思った次第です。ちなみに大学近くのゲーセンにあるのはすでに過疎気味だとか。

 

6/20 新入会員研究発表2回目

物静かながら中に熱いものを秘めたNYくんが『「アニマス」と「デレマス」変わったもの変わらないもの』をやってくれました。世界観、一貫したテーマなどから系列の2作品を比較検証してくれました。ゼノグラシアの話で少しざわつきました。

会長の縁故Sくんは「遊戯王の規制方法はこのままでいいのか」をやってくれました。デュエリストとして現在の規制方法とそれによって起こっている問題、その解決策の考察とその策のメリットデメリットなど他のカードゲームと比較しながら考えてくれました。強さのインフレの説明をカップを用いてしてくれたことが分かりやすく目から鱗でした。会長より有能かもしれない。

 

以上です。興味を持たれた方は月曜、金曜の5.6限に諒友館847に一度来てみてください。twitterやメールでのお問い合わせも大歓迎です。 

メール 2010mediart@gmail.com

twitter   https://twitter.com/rumas_n